日々の料理から、暖房、明かり、お風呂、焚き火まで、
過去には炎のゆらめきを見ない日はなかったはずだ。
身の回りにあった暮らしの道具も、鉄や陶器を除いて
基本的には燃える素材、土に還る素材で作られていた。
家も例外ではなく、火がでればすべて燃えてしまうので、
台所には火の神様である荒神様が祀られ、
消防団や自主防災会が組織されて火の用心に努めていた。
いまはどうだろう?
都会で火を見ることは少なくなった。
煙がたつことも迷惑がられ、焚き火すらもできなくなった。
調理もオール電化や電化製品での調理に変わりはじめ、
台所に荒神様が祀られることもなくなった。
ただよく考えてみると自分の家庭で火を使うことはなくても
どこかで膨大な火がおこされることで、都市生活は成り立っている。
身近な生活から火を手放してしまったことが、
人の管理できる範囲を超えた火をおこすことに繋がってしまったのだと
フクシマの事故がおこってしまって痛烈に認識させられた。
いまわろうだで火を毎日身近に使う生活をしてみて、
火はすべての生活の基本にあるのではないかと感じている。
火はとても強い力と魅力をもっているから、
実際の経験を通して、その有り難さから恐ろしさまでを
学んでおく必要があると思う。
火を敬い、火を怖れることで、人の管理できない力の存在を認識できる。
また火を中心とした生活のなかで、小さなエネルギーの循環を
学ぶこともできる。
火を使う生活をしていると、燃えるものや土に還るものを
自然に選択していくようになっていく気がしている。
今日は4歳の息子と一緒に石で小さな竃(かまど)をつくり 小さな鍋でお湯を沸かしてみた。
目を輝かせながら夢中になる息子と一緒にゆらめく炎を見つめながら
火を自分たちの手に、日々の生活に取り戻そう…と思った。
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