第2回かまどdeごはん&けせら畑の開放日
先月に続き、第2回目の「かまどdeごはん」「けせら畑の開放日」を開催しました。
今回は前回とはまったく違った新しい参加者のみなさんと開催しました。
「かまどdeごはん」はみんなでごはんを食べながら「食べる」ということを見つめなおしてみよう、という主旨で開催しています。
いつも文章が長い!と注意されるのですが、今日得られたことを踏まえて改めてかまどdeごはんの主旨を書いて書いておきたいと思います。
八百屋で働きはじめた10年前から、農と暮らしをつなぐためにはどうすればいいか、ということをずっと考えてきました。農家さんと食べる人の間に立って、いったいなにができるんだろう、と自問自答してきました。その明確な答えがでることなく起こった東日本大震災。
いままでの価値観や常識が全てくつがえされていったい何をしたら良いのかわからない日々が続きました。そのなかで動いた東北への食糧支援のなかで被災して避難所で暮らしていたおばあちゃんが僕に語ってくれたことがひとつの答えを教えてくれましたように思います。
「毎日配給されるパンや冷えたお弁当ではお腹は満たされても力がわかない。でもあんたたちは遠くからこんなところまで食事を作りに来てくれている。その気持ちと温かい食事をいただいたら明日もがんばろうっていう気持が湧いてくるよ、ありがとう。」
この言葉に込められた意味を何度も思い返しています。
もうひとつの答えはオーストラリアのアボリジナルの人たちの村を旅していたときにもらいました。町から数百キロも離れたコミュニティに訪れたときのことです。その村は町からとても離れているため食料に乏しく、村の人が日々食べていくだけの食料しかありませんでした。
でも僕たちが村を訪れたとき、村の人たちはとても歓迎してくれて、貴重なごはんとコンビーフを出してくれました。冷えたごはんにコンビーフ。普通に考えたら粗末でとても美味しいとうに思えない食事ですが、そのごはんの美味しかったことといったら!!村の人たちの気持ちが嬉しすぎて、涙がでそうになりながらありがたく頂きました。それが僕が食べたいままでで一番おいしいごはんの記憶です。
食べるというのはたんに「お腹を満たす」ということが重要なのではなく、「心が満たされる」ということが重要なのだと思うのです。それは良い食材を使っているから、とか技術に裏づけされているから、とかそういうものではないと思うのです。
僕たちが生きている今の世の中は食べるものに溢れています(溢れているように見えるともいえますが)。でも心まで満たされる食事というのはそのうちどれぐらいあるのでしょうか?そもそも心が満たされる食べものとはどんなものなのでしょうか?どんな豪華な食事でも救えない命が、たった一個のおむすびで救えることだってあると思うんです。
そんななか、妻が子どもの貧困に関心をもち、大阪子どもの貧困アクションという団体の食べられない子どもたちに無償で食事を提供するCPAO食堂という活動を教えてくれました。団代の代表の方は社会のはざまで苦しむお母さんたちにキメの細かいケアを行いながら、多忙な日々のなかで日々の食事を満足に食べられない子どもたちのために食事を作り続けています。そのことの果たす意味は計り知れないように思います。八百屋としてそこに野菜を継続的に届けていきたい。
食べることの意味、食べられることの喜び、心も身体も満たされる食事とはなんだろうか、そういうことを食べる人も、育てる人も、届ける人も、町の人も、村の人も、山の人も、海の人も、さまざまな人たちが共有しながら具体的な活動につなげていくための機会として「かまどdeごはん」があるような気がしています。
さて本当に長くなりましたが今日の様子です!
あまりの晴天に気温がぐんぐんあがり、途中は熱中症の危険を感じるぐらい暑い一日になりました。かまどの前はさらに暑く、噴出した汗が止まりません!!
それでもかまどでごはんを炊きます。なぜか。いくつか理由があります。
一つ目はもちろん美味しい!
かまどと薪、鉄釜で炊いたご飯はとにかく美味しいです。
二つ目はとても楽しい!
暑くてもかまどでごはんを炊いたり、野菜を蒸したりするのは楽しいです。
何度やってもワクワク感があるし、出来たときの感動もあります。
そして三つ目、それはいざという時にもなんとかなる!できる!です。
電気機器やメモリに頼っていてはいざというときに動けなくなってしまいます。でももっともプリミティブな方法を知っていればいざというときにその知識や技術が生きてくると思います。これは旅の経験や東日本大震災からの教訓です。
だから暑くてもかまどでごはんを炊きます(笑)
今日炊いたお米はありがとんぼ農園さんの自然栽培ササニシキ。
もちろん、お米自体のおいしさは言うまでもないのですが、鉄の羽釜で炊いたごはんはそれにしても美味しい!!炊いたあとのお米の輪郭がはっきりとしていて、お米の持つ甘みや香りがはっきりわかります。羽釜というのは先人たちの素晴らしい智慧と経験の結晶だとつくづく思います。
同時進行で大きなセイロを使っていまが旬の野菜を蒸していきます。
今日はこのあと畑を訪れるけせら畑さんがさっき収穫してくれた黄色いズッキーニやモロッコインゲンがたっぷりと入りました!農家さんを前にしてその方が育てた野菜を食べるというのはやはり何かが違います。
毎回野菜の内容や見た目が変わるのも楽しみの一つ。今回はなんかゴーカイな蒸し野菜でした(笑)
食べた後はこの取り組みの主旨でもある「食べる」を見つめる時間をとりました。
年代も、職業も、この取り組みに参加したキッカケや動機もバラバラの参加者のみなさん。話のキッカケは子どもの貧困というところからはじまりましたが、それは今の社会の持つ問題の一面であるけれども問題の本質はもっと深いところにあるのではないか、という展開になりました。
その一つが流れやつながりを分断されすぎていることが根底にあるような気がするという話がでました。それは町と村でもそうだし、畑と食卓でも同じようなことがいえると思います。
参加者の方に尼崎で子ども食堂を立ち上げた方がおられました。その人たちは最初は子どもたちを対象として考えていたのですが、フタをあけてみるとおじいちゃんおばあちゃんのグループから団体の申込があったそうです。あわてて主旨を説明しに走ったそうですが、結果的にそのおじいちゃんおばあちゃんたちが参加してくれたことで、世代を超えた交流の場が生まれ、とても良い会になったと言っていました。
そういう交流があまりないという現状も分断された社会の一面なのかもしれません。ハプニングから生まれたその結果にこれからのヒントが含まれているような気がしました
けせらの松岡くんは「こうやって一つの場に町からも里からもいろいろな人が集って話をできるということ、お互いの考えを共有できること自体がとても素晴らしいことだと思う」と言っていました。
松岡くんは自然農で少量多品種の野菜を育てています。ただ他の農家さんと違うのは畑を通して暮らしのつながりを取り戻すことに重きを置いている、ということでしょうか。綿の種を蒔いて綿をとり、紡いで糸に、そしてその糸を布にして、最後はガマ口の財布を作る、というような取り組みをしています。
それも分断されてしまったつながりを取り戻す行為の一つです。話がある程度落ち着いたところで、その実践の場であるけせら畑へみんなで向かいました。
畑に着くころには肌で感じる風が心地よい気温になっていました。
今日のけせら畑の開放日は、農作業らしいことはなにひとつしませんでした。みんなでしたのは畑や土やそこに生きる生き物の営みや動きを感じてみるという作業。
人が起こした小さなアクションがどういう風に畑の土や水の流れや風の動きに影響を与えるのか。このあたりのことを言葉で説明するのはとても難しいと思うのですが、実際に松岡くんの畑に立って見ると以外にすんなりと入っていくことができます。参加者のみなさんもそれほどの戸惑いもなく、とても自然にそれぞれが畑と向き合うという時間を楽しんでいました。
土を掘るのを楽しむ人、野草を集める人、風の草刈を教わる人、かえるやミミズを捕まえて喜ぶこどもたちなどなど。そのなかでも多数の人が夢中になっていたのが「種拾い」です。松岡くんは種を採るという循環を大切にしているので、自家採種に力を入れています。
このえんどうも自家採種している種のひとつ。畑には採りきれなかった種がたくさん落ちていました。写真の種などは綺麗に並んで落ちていました。それらを拾い集めてみるとかなりの量になりました。みなさんそれを家に帰って蒔いてみるそうです。うまく育つとよいですね!
最後は今日一日を振り返って一言ずつ感想をいただきました。みなさんそれぞれ自分のフィールドに照らしながら今日得られたものを話してくれてとても嬉しかったです。
そのなかで今日という一日がとても非日常的だった、という感想がありました。でも考えてみれば日常と非日常は紙一重です。今日日常だと思っていたことが明日には非日常になっている可能性だって十分あります。だから常に心と身体をほぐしながらいろいろな状況に対応できる幅の広い視野を持つことが大切なのかもしれませんね。
そしてその間にある壁が取り除かれて暮らしの一部になったときに、とても良い流れや循環が生まれてくるように思います。そのためにもオガクロが八百屋としてできることがまだまだたくさんあるなと感じた一日でした。
参加してくださったみなさんありがとうございました!
オーガニッククロッシング 出口
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