2016年5月29日日曜日

流域をめぐるエトセトラ 下流域を歩く


5月28日(日)に流域をめぐるエトセトラ「下流域を歩く」を開催しました。

いつもは猪名川のはじまりである源流の森を歩いているのですが、今回は川が大阪湾に注ぎ込む場所を訪れました。まずは前回訪れた源流の森の写真。この日は黄砂の影響で遠くの山々が霞んでいました。


下流域を訪れるにあたって、まず準備したのは流域の地図。


国土地理院の2万5000分の1の地図8枚で猪名川流域と武庫川流域のほとんどをカバーすることができます。
源流から河口までがどんな様子なのか、川がどこを流れているのか、一目瞭然でわかります。人の目線を離れて鳥のように空から地域を俯瞰して見ることで新しい視点が生まれてきます。

今回、まず河口付近の公園に集合した参加者のみなさんはこの地図をみながら、自分がどこに住んでいるのか示しながら自己紹介していったのですが、これがなかなか面白かったです。

参加者のみなさんはこれまでのイベントに参加してくれている方も多く、何かしらの接点はあったのですが、実際に地図を見ながら話すと下流域の人も上流域の人も川を通してつながっているんだとう実感が涌いてきます。

そしてこちらが実際の猪名川の河口。正確には猪名川から藻川が分かれ、神崎川へ合流し、そのあと中島川になって海へと注いでいます。この河口の周辺はさまざまな工場が立ち並ぶ一大工業地帯です。


遠くに見える堤防のようなものは大阪湾広域臨海環境整備センターの「大阪湾フェニックスセンター尼崎基地」。

滋賀県、京都府、兵庫県、大阪府、奈良県、和歌山県の2府4県から、焼却したあとの家庭ごみ、処理された上下水汚泥、工場のごみ、工事現場の建設廃材や建設残土などが運ばれきて埋め立てられている4つの埋立処分場のうちの1つです。埋立処分場は尼崎以外にも神戸沖、大阪沖、泉大津沖にあります。

いわば2府4県の人たちの暮らしのツケ、ある意味、負の遺産を一手に引き受けている場所だということが言えると思います。実はこれらの埋立処分場もいっぱいになってきているそうです。現に尼崎基地はもう満杯で、いまは船で神戸基地へと運んでいるそうです。

この場所は実は過去にもさまざまな負担を受け止めてきました。
以前にもご紹介しましたが、下が高度経済成長期に発電所や鉄鋼産業などを中心とした重化学工業地帯が形成されていたころの同じ場所の写真です。


このころには大気汚染公害訴訟なども起こります。さらに、このときの大量の地下水をくみ上げた影響で尼崎全体の地盤が2~3mも沈下し、実に市内の約40%!が海水面よりも低い「ゼロメートル地帯」となってしまいました。 この日まで僕はまったく知らなかったのですが、海よりも低い尼崎は湾岸全体が堤防で覆われています。

このことを詳しく学べる施設が尼崎閘門(こうもん)、通称「尼ロック」です。



尼ロックは日本最大の閘門設備だそうです。閘門というのは昔 教科書で学んだ「パナマ運河」と同じ仕組みで、高さの違う海や川を船が行き来するための設備です。海よりも低い尼崎の運河に船を進めるためには重要な設備なのです。

そして万が一水が入ってきたときには尼 ロックをはじめ2箇所にある排水ポンプで水を外に排出する仕組みになっているそうです・・・。実はこのような状態は尼崎だけなく、西宮や神戸のほうにも同じ状況があるそうです。

尼ロックや尼崎海抜0メートル地帯についての詳しい情報はこちらから。

尼崎が海よりも低いということを知ってしまったことも流域をめぐるエトセトラの一部分なのかもしれません。一度話を森に戻します。

実は猪名川の河口で、100年かけて森を育てようとするプロジェクトがはじまっています。

このプロジェクトでは猪名川流域や武庫川流域の森に種を拾いに行って植え、苗木を育て、その苗木を植林するという活動をされています。

昭和のときの写真に写っていた重工業地帯の今がこちらです。

このはじまりの森と呼ばれる森は、平成18年に植林され、いまでは背丈を大きく超える木々に成長しています。


森に入るとすぐに空気が変わることに気づきます。気温が下がりとても過ごしやすくなること、また立ち昇る腐葉土の匂いや、木々の花の良い香りにも包まれます。そして鳥のさえずりが聞こえきます。小さいけれど、人の手で作られているけれど、ここは確かに森でした。


小さな森を抜けると工場が現れて、ここが尼崎の工場地帯であることを思い出します。


都会に人の手で森を作る、ということには賛否両論あるかもしれません。特に元重工業地帯であるこの場所だからなおさらです。

ただ実際にここを訪れてみて、「森」という存在が身近にない尼崎にとって、この場所があることで森を意識してできる入口、キッカケとして必要かもしれないと思うようになりました。

考えてみれば人はいつの時代も森を破壊してきました。タタラの時代には燃料として奥山まで木を伐採した
いいますし、身近なところでは神戸の再度山も薪炭材として乱伐されて荒廃し明治以降の植林と保護活動によって再生されたという歴史があったりします。

また前後の拡大造林政策によって行われた杉や檜の植林によっても森は破壊されてきていることを考えても、この場所が人工の森であったとしてもそれをどう捉え、どのように生かしていくかということではないかと思います。
実際に体験すると頭で考えていたこととは違った何か感じと思います。

ここまでてお腹がペコペコになってしまった参加者のみなさん。河口にほど近い場所でお店をされている「穀菜食堂なばな」さんへ。


たっぷりのごはんと優しいおかず、具沢山のお味噌汁をいただいてホッと一息つきました。そのあとは源流の森や、流域でがんばる若い農家さんたちや畑の写真などを見ながら、流域のつながりをみんなで考えました。

多く出た意見としてはやはり今回のように流域という単位でものを考えたり見たりする機会があると、いままでとはまた違った連体感のようなものが生まれる、ということでした。このことがまずとても大切な1歩なのではないかと思います。

以降は今回下流域を歩いてみて僕なりに感じたことです。
ひとつ感じたのは昔は山の人と海の人、上流の人と下流の人がお互いの恵みを持ち寄って交流し支え合っていたのではないかと、ということ。

武庫川と猪名川という2つの川に育まれた尼崎は、もともと干潟が広がるとても綺麗な海だったそうです。川が運んできた土砂によって豊かな土地、豊かな海だったのではないかなと想像します。

尼崎の名前の「尼」という字は古代、中世においては広く漁民、海民を指していたそうです。現代では海の近くには工場が立ち並び、海を生業とする人がほとんどいなくなってしまいました。すると海の現状をみんなに伝える人もいなくなってしまいました。
そうなると山と海の交流も衰退してしまい、そのことが人や物の自然な循環も止めてしまっているように思います。

土の中の水と空気の流れが停滞することで土が呼吸できなくなり粘土になっていくように、下流にたくさん集まってくる人もや物が堰き止められて溜まっていき呼吸がらしづらくなっている。そんな状態が生み出すストレスからいじめや貧困、孤立化などをはじめとした様々な問題が表面化してきているのではないかと思いました。
一方で上流では物や人が流れていくだけて帰ってこない状態が続き、過疎高齢化や農の担い手不足などをはじめとした地域が疲弊したり消耗したりしているじゃないか。そんなことを感じました。

今回のような交流を通じて少しずつでも動きや流れが生まれ始めれば、いつかきっと新しい循環がはじまったり、地域が呼吸できる環境がうまれてくるんじゃないかと思ってます。できたらいまは少なくなってしまった海のことを山の人や街の人に伝えられる人がでてきたら素晴らしいと思います。

流域をめぐるエトセトラはそのためのキッカケづくりだと思っています。大人も子どもものびのびと深呼吸しながら笑顔で生きられる社会、世界になったら良いなと思います。ゆっくりとでも良いので長く流域をめぐるエトセトラを続けていけたらと思います。



大人たちが話をしている間、こどもたちは流域の地図の上にのって川の流れを色ペンで追いました。



山からはじまった川が海にたどり着いたときには歓声もあがっていましたよ(笑)

次回の流域をめぐるエトセトラは6月19日(日)を予定しています。次回は能勢の側の源流のひとつである妙見山の森を訪ね、昼からはけせら畑で「流域の味噌作り」のための大豆を蒔く予定です。詳しい情報はまたホームページにアップします。よろしくお願いします。

出口










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